私小説
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

(画像は Copilot による架空の合成イメージ)
あらすじ(ファミリーストーリーから):
向田久美(むこうだ くみ、75歳)の孫(向田淳平:むこうだ じゅんぺい、19歳)は、ふと立ち寄った金座古書店(きんざ こしょてん)で
何気なく買った古い統計学の本の著者(三名金作:さんな きんさく)が、お祖母ちゃん(久美)の父であり、淳平の曽祖父(ひいじいちゃん)であることを
知った。
そして、
淳平は自分のヒストリーに興味を覚え、久美お祖母ちゃんの語る曽祖父が生きた昭和の平凡な一庶民の青春を知ることになった。
久美お祖母ちゃんがアトリエと呼ぶ台所の食器棚兼書棚には“永久保存”の札の貼ってある父の著書が数冊あった。
ある休日に奈々子が、
“お義母さんの永久保存の札が貼ってある本の中に、こんな革張りの手帳があったよ・・”と言って、
久美の前に差し出した。
いきなり、久美がその手帳をひったくった・・、
奈々子
あっ・・!
と驚いたような奈々子の表情に、久美はハットしたように、
あっ・・ごめんね・・、お父さんの秘蔵版なんよ・・。
奈々子
お義母さんにも秘密があるんじゃね?
久美
そりゃ~、お互いにあるじゃろう・・
奈々子
私には秘密なんか・・ないけんね・・
久美
良彦(奈々子の夫)に知られたくないこともあるじゃろう・・?
奈々子
そりゃ・・
そこへ、2階から淳平が降りてきて、“なにゆうとん・・”、
久美
ひいじいちゃんの“手帳”が出てきたんよ・・、
淳平
大学の図書館で調べたら、“三名金作”の本が何冊かあったで・・、パラパラと見ただけじゃけど・・「統計で最も美しい分布はNormal Distribution(正規分布)」だと強調しとったわ。
久美
統計学に、ちょっとは興味あるん?
淳平
まだ先のことは、ようわからんわ・・
と言って、2階の自分の部屋に上がっていった。
入れ替わるように、父である良彦が2階から降りてきて、
夏休みが長くとれそうじゃわ
奈々子
じゃ~、奈良の大峰山に行かない・・?
良彦
俺の車で行くか・・、
奈々子
私は登れんのじゃろ・・?
良彦
降りてくるまで、洞川(どろがわ)を観光しときんさい・・
奈々子
え~、一人になるん・・、
良彦
2~3時間で降りてくるから・・ええじゃろ・・?
奈々子
わかったわ・・
と言って、奈々子は少しむくれたが、“お義母さんも行けばいいのに・・”
久美
何言うとんね・・私にそんな元気があるわけないじゃろ・・
奈々子
仕方ないな・・、淳平達が登っている間・・お土産さがしでもするわ。
そこで、久美の父がのこした日記をもとに、「昭和という名の青春」を生きた“三名金作”の人生を「私小説 青春自衛隊」として紹介しよう。

 
私小説 続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その1)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

駐屯地の1日
青春自衛隊はある青年の人生ドラマで、名もなく貧しい青年が自衛隊で国旗・国歌に対する礼節を知ると共に、
高度な技術・技能を身に付けて行くまでの人生ストーリーである。
自衛隊は完結した組織ですべての機能が備わっており、防衛技術学校・防衛医科(看護)大学や研究機関など、まさに小さな国家そのもである。
このストーリーは1青年が組織のなかで特殊な技術・技能を習得しその分野のプロフェッショナルになるまでの人生ドラマである。
1青年の自衛隊入隊から生体電気現象の伝送など遠隔医療技術の開発、そして情報処理としてのデータサイエンスや人工衛星や合成開口レーダの画像解析などに至る
自衛隊での青春時代を回想するエッセイであり、1957年(昭和32年)頃の自衛隊である。
***
僕(三名金作)は衛生隊に所属していた、当時(現在もと思うが・・)、起床ラッパ(午前6時)と共に隊舎前に整列し点呼を受け、健康状態などの確認を受け、
隊舎内外の清掃や整理整頓の点検を受けたのち、大食堂で朝食をとるために一目散に駆け出さないと、長蛇の列ができてしまう。
朝食後は、医務室の勤務に出かける。当時の僕は衛生・臨床検査や業者が納入した食品サンプルの検査などを担当していた。
勤務が終わっると、入浴が先か食事が先か・・迷いながら、それを済ますと午後10時までの自由時間をTVなどを観て過ごすことが多かった。
ある時、隊舎のスピーカーから流れてくる消灯ラッパの音色が、まるでトランペットのような響きでウットリと聞きほれていた。
そこで、アホナ僕はアンコールの電話をかけると、ラッパ手もアホだったのか、消灯ラッパを何回も繰り返し、駐屯地内がざわつきはじめた。
こっぴどく叱られたのは当然である。

(合成のイメージ)
***
国旗は国家の象徴ですので、国際的にも国旗に対するマナーがあり、外国の国旗であっても、敬意を表して起立すべきであるが、
ある国際競技会場に臨席したある首相は、日の丸を掲げて行進する選手団が首相の前を通過するとき、各国の要人らは起立して迎えたが、
ただ一人、座ったままだったのが、我が国の首相であった。周りから促されて、照れくさそうに起立した姿がTVに映し出された。
***
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その2)
(登場人物・場所などはすべて架空です)
休日の駐屯地
通常、土曜日は半ドン(午後から休み)、日曜日は1日休みなので外出して町に出かけることもあった。
隊内で食事しない外出者には“乾パン”が支給された。
この“乾パン”をためて、田舎の家族に送る隊員もいるほど、当時は貧しかった。
僕(三名金作)は、仲の良い同期の隊員と一緒に外出して、午前中はパチンコをして遊び、午後は映画をみて、
夜は居酒屋の焼き鳥屋で赤ワインで割った焼酎をスズメの串焼きで飲む・・、当時の焼き鳥といえば“雀”で“鶏肉”になったのは、
もっと後の時代である。
夜が更けると、駐屯地のまわりに多くの屋台の日が灯る・・、
その屋台の酔客(多くは自衛隊員)を相手に演歌の流しがやって来る、その流しの中に小学低学年と思われる幼い少女がいた。
少女は母親の伴奏(三味線など)で民謡などを歌い終わると小さな竹籠を差し出してお金を貰うのだが・・、現在なら児童虐待になりそうだ・・
そうやって演歌歌手デビューした少女もいると言う。

((画像はイメージ)
僕は気取って、町のバーで粋に洋酒(トリス・ウィスキー)をホステスを相手に飲むこともあったが、それは給料をもらった時くらいである。
酔っぱらっていても、門限(24時)までに帰隊しなけれならない。飲みすぎて酩酊した隊員を門限までに駐屯地内に入れないと門を閉められてしまう、
その夜の門衛は優しい人だったのか、門を半開きで待っていてくれた。
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その3) (登場人物・場所などはすべて架空です)

青春自衛隊(医務室)
僕(三名金作)は医務室の業務であった。診療は内科・外科・歯科が主な診療で、国立病院などの医師が派遣されて来ていた。
僕達、新米は先輩の指導を受けながら、診療開始までに医療器具などの消毒や薬剤の点検・補充、病室(大部屋20ベットくらいと個室の点検と清掃)や
患者食堂での配膳などを行う。それが済むと診察の補助に当たる。僕の主な仕事は先輩から臨床検査を教わりながら、
「臨床検査提要」をみて多くの検査方法を学んでいた。
真夜中に叩き起こされ、急患の血液検査・・と言っても当時の事なので白血球・赤血球・血色素(ヘモグロビン)、尿や糞便の検査など簡単なものであった。当時の腹痛で最も多いのが回虫などの寄生虫や虫垂炎などであった。特に、急性虫垂炎が疑われる患者(隊員)は衛生隊の救急車で契約している外科病院に搬送した。もちろん、病気によっては自衛隊の地区病院への入院となる。

ある時、いつもの様に、大食堂で食事をし終えて、食後のお茶を一杯飲もうと、僕らのテーブルのヤカンをとると空になっていたので、
隣のテーブルのヤカンを“一寸拝借”とことわってから、コップにお茶を注いでいると、突然、後ろから頭を何発か殴られた、
振り向いた僕の鼻頭にゲンコツが飛んできて、鼻血が出た、血を見た僕は我を忘れて反撃・・、何発か殴り返したところで、双方の所属隊員たちの止めが入り、
その場は収まった、どうも、勝手に自分たちが淹れてきたお茶を飲もうとしたことに腹を立てたらしい。
翌朝、医務室に行くと、喧嘩相手の隊員が上官と一緒に診察を受けに来ており、左瞼が青く腫れあがっており痛々しい・・。
僕の上司である上官が、“金作・・、お前が治療しろ・・”と言われ、僕は相手に“いや~ どうも・・”と頭を掻きながら言うと、
相手も“イヤ~”と言って、何となく仲直りしたって感じで、相手の上官は“こいつは輸送隊でも剛のものやで・・”
衛生隊にも意気のイイのがおるのう・・” などと僕の上司と話し合っていた。
それから、食堂でのヤカンには面倒でも自分で淹れに行くように心掛けた。
現在では考えられないが・・、少々の切開や縫合は医務室勤務の衛生隊員がやっており、僕の縫合は外科医なみだとの評判で、町のチンピラに刺された傷だとか、
事故死などの整形も、何故か当然の様に僕にやらされた・・(当時の町の医院や病院の夜勤には医学生や研修医などもいた、
もちろんい正規の医師も待機していたと思う)。
 
(登場人物・場所などはすべて架空です)
青春自衛隊(災害派遣)
近年のコロナ渦ではワクチン接種や医療支援でなどで医官・看護官・衛生隊員などの災害派遣が発動されている。
僕にとって強烈な記憶に残っているのは”伊勢湾台風、1959年(昭和34年)9月26日”だろう。
夕刻に紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)によって、その被害は死者・行方不明者数 5,098名を出した。
次いで、第二室戸台風、昭和36年(1961年9月6日発生)で9月16日に室戸岬に上陸し、
その後紀伊水道北部から大阪の西部を経て近畿地方を通過した。
この台風による被害は46都道府県に及び、大阪府内では、死者32人、負傷者2392人、家屋の全壊・半壊・流失24の大被害をだした。
この台風の最中、連隊の車両は大阪方面に向かい災害派遣が出るのを待った。
台風が通り過ぎた大阪市中は瓦礫が軒下まで積み重なる惨憺たる状況であったが、自衛隊施設部隊の重機が投入されると通路が開く、
そこに自衛隊員が投入され瓦礫が搬出されて行く・・、その活躍を目のあたりにした市民から歓声が挙がると共に、見物していた市民たちも瓦礫の撤去に協力しだした。
衛生隊員は作業中にケガを負った隊員の手当など、また、破傷風の予防接種など後方支援に当たった。
そんな現場で一人の隊員の治療を終えた僕が所属氏名などを確認していると、チョット厳つい兄い達が数人集まってきて、
僕に詰め寄り、こう言った・・”ちょっとくらい許してやれヤ~、この隊員は一生懸命やってたで~”・・、
どうも僕が隊員を叱っているように見えたらしい・・、事情が分かると、兄い達が”ケガした者が大勢いる、診てくれるかと・・”、
ちょっとの治療ならしてあげたいけど、医官でない僕には出来ない。
そこで消毒液やガーゼや包帯などを渡して辞退したが、その後、救護テントが張られ一般市民の治療も日赤と共に行なわれ感謝された。
この災害派遣には問題があった、
何故、自衛隊車両は大阪を目のあたりにして待機となったのか・・?
それは、ある左派系の県知事が自衛隊の災害派遣を良しとしないなかで自衛隊独自の判断で災害地に向い待機していたのだ。
県民・府民の生命財産を守るべき自治体の首長が己の偏った思想?で災害派遣を要請しなかったばかりに被った県民・府民の損害は大きく、
次の選挙で落選し県政史上最低最悪の首長として歴史に名を残した。
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その5)
(登場人物・場所などはすべて架空です)
青春自衛隊(野営訓練)
大規模な演習となると作戦本部、炊事炊飯、病院テントや隊員用の中規模から個人テントまで野営地に多くのテントが張られる。
大勢の隊員の生活では排泄処理も大切で、今は知らないけど、当時は細長い穴を掘り竹で囲い筵をかけて仕切りをした中で用をたすのだけど、
後始末は石灰を撒き埋めて元通りにする。その時、僕は石灰が手元に無かったのでカソリンを撒いた。誰も用を足していない事を確かめ火をつけた、
ところが一番端っこで個人用に作られた幹部用の筵の囲いの中で隊長が用を足しいた‥、僕は隊長のお尻にヤケドを負わせ
てしまったが幸い軽くて済んだものの、こっぴどく叱られたのは当然で、それから毎日、隊長のお尻にチンク剤を塗りに通うことになり、
その都度、隊長のお尻を拝まされる羽目となった。
ある夜、隊長のお尻にチンク剤を塗りに行く途中で回り道をして夜間訓練地の中に入ってしまった。
暗闇の中から、鋭い誰何(すいか)が···、"止まれ! 誰か!"、その鋭い威圧に足がすくんだ、僕も誰何の訓練を経験していたが、
この時ほどビビった事はない。これが本物の誰何だと思った。
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その6)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

青春自衛隊(治安出動訓練)
1959年(昭和34年)にはいると日米安保条約改定問題が政局の焦点となり、左翼諸団体の全学連が街頭で投石などの過激行動が激しくなり、
1960年(昭和35年5月)に衆議院本会議で新安保条約が可決されると国会包囲のデモや首相官邸突入や国会構内乱入などより過激化した。
僕の駐屯地でも治安出動に備えての訓練が始まった、デモ隊組と出動部隊に分かれての鎮圧訓練で、衛生隊は負傷者の搬送や手当の訓練であるが、
指揮官から・・”同じ国民のデモ隊の負傷者はどうする・・”との意地悪な質問を受けたが、僕は内心”知るか~”と思ったが、
ここは無味乾燥な・・”救助します・・”と応えた。
左翼の全学連は学内でも学長や教授や教師をつるし上げ、公衆の面前で土下座さすなど、傍若無人な振る舞いが連日TVなどで放映され革命前夜のような様相で、 それを煽っているのが左翼政党だと思い、激しい義憤を感じ昭和維新の歌・・
♪♪
汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は乱れ飛ぶ、溷濁くの世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く”・・
♪♪
・・・を歌った。

翌年、1960年(昭和35年)10月12日に浅沼稲次郎が刺殺された。
その当時、国立大学生だった同級生に”なぜ投石するのか・・”・・と聞くと、同級生は”大人なたちがペコペコして・・面白い・・”と言った、その同級生は後に地方法務局の局長になった。
僕は思う・・、自衛隊と言う強力な組織があったからこそ、過激な左翼諸団体の暴走を抑えることが出来たと・・、 そして、極左派の内ゲバ(仲間同士の殺し合い)で国民の支持を完全に失た。
なお、
1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自衛隊にクーデターを呼びかけるアジ演説の後に割腹自殺した。
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その7)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

青春自衛隊(駐屯地慰問)
僕のいた駐屯地の休日の夜には大食堂で映画などが上映された。上の画像は昭和何年だったか忘れたけど、駐屯地に花菱アチャコと伴淳三郎が来られた、
出し物は二等兵物語だったけど・・・、しゃべくり漫才が懐かしい!
駐屯地の控室でお二人を僕が撮影したことは確かだけど・・いつだったかは忘却!
演芸大会も何度か開かれたけど、当時ののど自慢大会では浪曲(浪花節)が多かった、演歌歌手やアマチュワバンドの歌謡ショウなども開かれた。 毎年、駐屯地ではあ体育祭があって、各大隊ごとに趣向を凝らした出し物が、一般に公開された。僕の行きつけのスナックのママがホステスなどを連れて来てくれ、 “金作” 頑張れ・・などと応援してくれた。また、地域の祭りや催事にも参加したりした。
当時、島などのに隔離されていた“ハンセン氏病” の療養施設を訪問し患者達と野球の親善試合などをおこなった。
また、自衛隊の創立記念などでは、戦車や重火砲の展示や模擬戦闘訓練などを公開し、一般市民との交流を深めた。


衛生隊の搬送訓練の様子(画像はイメージ)
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その8)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

(松島の風景、WEb サイトから引用)
青春自衛隊(旅の思い出)
月日はアッという間に過ぎて、衛生隊長(医官)から東京の衛生学校で衛生技術を学んで来るように言われ、再び東京へ・・、
歴史ある衛生学校で学ぶうちにいつしか医学・医療がヒョットしたら自分に合っている様な気がして来た。
そんな折に、
衛生学会(仙台)に出席した僕は、友達と別れ一人で松島へ宿もとらず行き当たりバッタリで、塩釜行きの列車に乗った。さて・・さて・・困ったゾ・・、
宿が取れない・・、取り合えず近くの喫茶に入り、コーヒーで一服・・、ママさんに泊まる宿が無いって言うと、
よければ隣のスナックの2階で良ければと・・泊めてくれた。その夜、階下のスナックから声が掛り、そのスナックに行くとママさんの娘さんがスナックをやっており、
見事なプロポーションの美貌に、ただの娘さんではないと思ったら、ミス・インターナショナル東北代表だと言う。
翌朝、彼女と一緒に塩釜から松島まで遊覧船に乗り多島美の絶景を楽しんだ。
下船後・・瑞巌寺に向かった途中で、前方から周りの観光客とは明に違うオーラの美女がやって来るではないか。
2人の美人同士の目が会い、お互いに意識し合った感じで双方が立ち止まった・・、島田陽子嬢ではないか・・、
当時の人気TVドラマ「銀座わが街」のヒロイン役で人気女優が目の前にいるだ(画像)。

(松島にて)
***
その後、島田陽子氏は国際女優として名をはせたが、晩年、内田裕也氏との結婚(戸籍上での妻は樹木希林さん)や金銭などのゴシップが・・・、
そして、ポルノ的な映画で裸体を晒すも卑猥さは感じられず、あくまでの上品な女優であった(画像は映画の1シーン)。

***
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その9)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

(Copilot による合成イメージ)
青春自衛隊(結婚)
ある日、僕(三名金作)に故郷の両親から見合い写真が送られてきた。気が付けば、そんな年頃(26歳)になっていたようで、
写真を見て気に入ったら見合いしてみないかとあった。見合写真ではあるけれど、上品そうで綺麗な女性(21歳)であった。同室の上司(上官)に見せ、
あれこれ言っていると、“金作には、もったいないナ・・・、お前の身分には過ぎた女性やないか・・”などと言われ、確かにそうだと思い、見合いを承諾した。
お見合いは実家で仲人を交えて、両家の両親の同席のもとでの簡単な茶席であった。両家の親達の勧めで僕と彼女は近くの公園に行って趣味などの話をした。
僕は彼女に“趣味は何ですか・・”と尋ねると、彼女は“綺麗な着物を着て綺麗な畳に座っていることです・・・”と答えたが、
僕は彼女のジョークだと思い、彼女の清楚な感じに・・と言うより普通の女性と付き合った経験がないので、
浮き浮きとした気持ちで“結婚を前提に付き合ってもらえますかと・・”と尋ねると彼女の返事はOKだった。
ただ、彼女は“早く結婚したい・・”と言うではないか・・、休暇は3日だけだったので、彼女とのデート(付き合い)はわずか3日だけで、
2か月後に故郷の護国神社で結婚式を挙げた。結婚式の当日、式場には結婚式を待つ女性が数人いて、僕は父に“僕の相手はどの女(人)・・?”と聞いて、“お前はアホか・・、自分の嫁さんになる女(人)を忘れるなんて・・”と叱られたが、彼女と付き合ったのは3日だけだったので、着飾って美しく化粧をした彼女が分からなかったのだ。
無事に、結婚式や披露宴も終わり、赴任地(駐屯地)で借りた2階の6畳一間で共同炊事場・トイレの安アパートでの生活が始まった。夕食後は2人で近くの銭湯に行き、待ち合わせて一緒に安アパートに帰える・・、まるでフォークソング“神田川”(作詞:喜多條忠、作詞:南こうせつ)・・、
♪♪
貴方は もう忘れたかしら・・・
二人で行った 横丁の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに・・・
♪♪
・・のような、お見合して結婚してから恋愛が始まったのである。
この時代、6畳一間の新婚生活だったけど、惨めさはなかった。しかし、僕の安月給では彼女(妻)を養いきれないのは目に見えて明らかなので、
民間病院に勤めている元上司(上官)に相談したところ、ある病院で臨床検査の出来る人材を探しているとのこと・・、
当時、衛生・臨床検査技師の国家資格はなかったので、医学検査を経験してきた僕に誘いがかかったのだ。
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その10)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

青春自衛隊(自衛隊 卒業)
当時、臨床検査技師はと言う国家資格はなく、衛生検査の範疇であったが、
自衛隊の医務室や地区病院などで経験を積んできた僕は地元の医師会長が経営する消化器外科の病院の招聘に応じた。
僕がやりたかったのは生体電気信号(心電図、脳波、筋電図など)の解析であったが、腰掛程度の軽い気持ちと給料の良さで、この病院に勤めることとなった。
病院が用意してくれた住まいは看護婦(師)の宿舎で、本間造りの8畳二間で、それまで住んでいた6畳一間からすれば、十分すぎる広さであった。
しかし、その場所は、当時の花柳界隈(遊郭や飲み屋など)であり、彼女(妻)にしてみれば、僕が浮気などしないか帰宅するころになると、迎えに来るようになった。
彼女である妻は恋人で恋愛中だから、そんな心配はなかったのに、男社会だった自衛隊から女性ばかりの職場になったので、心配だったのだろう。
看護婦(師)の宿舎とあって内風呂は入りにくいので、近くの銭湯に彼女(妻)と一緒に行ったが、当時はごく普通で浴室のある家は少なかったし、あっても広い銭湯を好む家庭が多かった。
しかし、周りは花柳界隈であり、酔客の罵声や喧嘩沙汰が多く治安が良いとは言えなかった。
ある日、その事件は起こった・・、暴力団(やくざ)同士の抗争で追われた“やくざ”の一人が彼女(妻)が入っている女湯に逃げ込んだのを追い
かけてきた“ヤクザ”が得物(ドス)で相手の"ヤクザ"刺したのだ。
裸で逃げまどい悲鳴を上げる女性たちの中で、ただ一人湯につかっていたのは彼女(妻)だけだったと言う。泰然自若と言えば聞こえは良いが、
世間知らずの天然だけの彼女(妻)であるが、僕にとって、それが愛しくて・・“あなたの子供が欲しい”と言って、
その夜、僕の恋人である妻は激しく燃え妊娠した。

(Copilot による合成イメージ)
 
続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その11)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

(Web site より引用)
 
青春時自衛隊(終わり)
向田久美は父の革張りの日記から、父が無線通信士・技術士、電気技術者、情報処理技術者などの国家資格を持ちながら、
自衛隊では衛生・臨床検査、食品検査などに携わっていたことを知った。
久美が父の日記から、母との馴れ初めを読み終えたとき、玄関先が騒々しくなった。孫の”淳平” らが奈良の大峰山から帰って来たのだろう・・、
父の日記を閉じ、食器棚兼書棚の奥にしまった。
リビングのドアが勢いよく開いて、孫の”淳平”が入って来た。
淳平:
おばあちゃん、ただいま・・・、
久美
お帰り・・、楽しかったかい・・?
続いて、嫁の奈々子が入って来た。
奈々子
お義母さん“今、帰りました・・、留守中 変わりなかった・・?”
最後に、息子の”良彦”が入って来た。
良彦
ただいま、やれやれ・・疲れたな・・。
久美
みんな疲れたじゃろう・・、冷たい飲み物を用意するから・・着替えておいで、アイスコーヒーにするかい・・?
奈々子
私が淹れるけんね・・
久美
なにゆうとん・・あんたも疲れたじゃろう・・私が淹れるよ・・
皆が自分たちの2階の部屋に行って、部屋着に着替えてリビングに降りて来た。賑やかになったリビングで、皆がアイスコーヒーを飲みだした。
最初に、孫の”淳平”が、
淳平
お祖母ちゃんの淹れたコーヒーは、“うめーなー”
良彦も奈々子も“おいしい・・”と言った。
久美
ところで、山開き早々の大峰山はどうじゃった・・?
淳平
麓の旅館街は登山客の講の団体で賑わとったよ・・女人禁制だらか男ばかりじゃった・・。
奈々子
旅館の人や土産店の人達に本音を聞いたけど・・、女人禁制を解いて欲しいって言っとったわ・・、女人禁制を守っているのはお寺だけじゃけん・・。
良彦
まあ・・そんなところじゃな、それより”淳平”が「西の覗き」を体験した話をしたら・・どうだ。
淳平
山頂の「表行場」の崖で逆さまに吊るされたんじゃ・・、命綱を体に縛っているけど、先人が“親孝行するか・・?”って問うから、
「はい! 」と答えたけど、その瞬間・・ズルっと落とされビックリしたら、先人が崖の観音像? を拝めと言うけど・・
怖かったので目を閉じていたのようわからんかったけど手を合わせたら・・引き上げてくれたよ。
良彦
親孝行するって誓ったんじゃな・・。
奈々子
さあ~、どうじゃろう・・?
久美
大阪の商人の息子達は一度は経験させられるらしいけんね?
良彦
それより、吉野へ向かう途中で立ち寄った “ ( 和歌山県田辺市龍神村殿原 )の慰霊碑" のいわれにジーンと来るものがあったな。
***
その話は次のような内容であった。
昭和20年6月1日、458機のB29が大阪を大空襲し多くの市民が犠牲に、日本軍の高射砲砲撃で被弾した1機が大峰山(山上ヶ岳)に墜落・・、
生き延びた3名も捕らえられるも亡くなった。
生存者2名は龍神村で捕虜となり、連行途中で一部村民から石を投げられるなどしたが、
戦地の息子を思いお握りを差し出す老婆もいたとか。
敵兵の死者にも関わらず丁寧に埋葬し十字架を建て弔ったのは終戦前の6月9日のことであったと言い、今も米兵の慰霊が毎年5月5日に行われているそうだ。
***

(YouTube:仮置零士作品より引用)
久美は息子の良彦がこの話で“胸が熱くなった・・”と言うのを聞いて良彦も”歳”をとったんじゃな・・と思った。
向田久美は、皆の話を聞きながら・・、その様な話を久美が幼いころに父から何度か聞いた覚えがあった。
平凡だけど、この小さな庶民の幸せが続くことを願いながら、アイスコーヒーを飲んだ(完)

 
・目次(青春自衛隊) Link