私小説 ファミリーストーリー (登場人物・場所などはすべて架空です)

 
                                        The Family lineage of MUKOUDA

 

序章
 西暦2040年、西風が冷たいものの春の日差しを少し感じるようになったある日、広島市の向田淳平(むこうだ じゅんぺい、19歳)が通う大学近くで 古本を多く扱う商店街を歩いていた。別にこれといった用事が有る訳でもなく、ただ暇つぶしのように、気まぐれに歩いていたとき、 ある一軒の小さな金座古書店(きんざ こしょてん)の前で淳平は立ち止った。


 店先には古い匂いがするような雑誌がワゴンに無造作に積まれており、左右の壁際と中央部分の本棚には、多くは歴史か文芸関係と思われる書籍が天井近くまで 整理・整頓され陳列されていた。文科系には全くと言ってほど興味のない、ましてや古本に関心などない淳平であったが、その時は、何故か冷やかしでもなく、 一寸の覗いてみるかくらいの軽い気持ちで店に入った。

 店内の奥に進むと古書独特の匂いに包まれながら淳平は奥の角の書棚で立ち止り無意識のような感覚で書棚の一番上の方に目をやった。 そこに一冊の、この古本屋にしては珍しいかもしれない理数学系の統計学の本があった。淳平は何にかに操られるように背伸びしてその本を手にとって、 内容も確かめずに書店の更に奥でレジの前に座っている店主らしき老人に黙ってその本を差し出した。老人は老眼鏡越しに、淳平を見て、その本の値段を確かめ ニッコリとしながら紙袋に入れながら“ありがとう・・“ と礼を言った。黙って立ち去ろうとする淳平に老人は言った。

 兄さんは理数系の学生さんじゃろうかね・・?

淳平は、
 一応、工学部ですが・・

淳平は、ややぶっきら棒に言った。

老店主は、
 そう・・、統計学を勉強しとるんかの・・?

と聞いてきたが、淳平はそれには応えずに逆に、

 どうしてこんな本を1冊だけ置いとったんですか・・?

文科系の多くの本の中で、この1冊だけの統計学の本が気になっていた。
老店主は、

 さあな・・、ワシにも分らんが、兄さんを待っとったんかも知れんな・・。
 ハハッハ・・冗談・冗談・・
  だけどな、古本にはたまに不思議なことがあるけんの・・。

と、真顔で言った。

淳平は、ただ頷いただけで、そそくさと店を後にし本の入った紙袋を抱えて家路を急いだ。

淳平は、なぜこんな結構高い古本を買ったのだろうかと半分後悔しながら家に戻ると・・お祖母ちゃんである向田久美(むこうだ くみ、75歳)が アトリエと呼ぶ台所のテーブルでいつもの様に飽きずに猫の絵を描いていた。お祖母ちゃんは猫アレルギー体質なのに・・と思いながら・・、

 ただいま・・お祖母ちゃん

と言うと、お祖母ちゃんは・・猫の絵を描きながら顔も上げずに、

 お帰り・・外は寒かったじゃろう・・?

 淳平は、黙ってさっき買ったばかりの本を紙袋から取り出し、久美お祖母ちゃんのまえに置いた・・。

 久美は眼鏡を外し本を手にし、その本の表紙をひとなでし・・黙って立ち上がると食器棚兼書棚の左奥から一冊の本を取り出して淳平の前に置いた。

淳平は驚いた・・、まったく同じ表題の本ではないか・・。

 お祖母ちゃん・・、どうしてこの本が家(うち)にあるん・・?

 久美お祖母ちゃんは、懐かしそうに窓の外の遠くを眺めながら言った。著者の名前を見てごらん・・、三名金作(さんな きんさく)・・、 その人はお祖母ちゃんのお父さんじゃけんね、淳平の曽祖父(ひいじいちゃん)なんよ・・。

 淳平は不思議な因縁のようなものを感じた。偶然、通りかかった古本屋の一番奥の角にあったただ一冊のこの本を必要もないのに買うなんて・・、 古本屋の老店主が言った“古本にはたまに不思議なことがあるけんの・・”を思い出していた。

淳平は初めて自分のヒストリー・・、そう・・ファミリーヒストリーに興味を覚え、

 お祖母ちゃん・・、曽祖父(ひいじいちゃん)の話を聞かせてくれん?

そして、久美はお茶を一杯飲むと静かに話し出した。

そして、久美はお茶を一杯飲むと静かに話し出した。

目次
● 私小説 ファミリーストーリー
・第1章 昭和と言う名の青春(東京編) 
Link
・第2章 昭和と言う名の青春(自衛隊編) Link
・第3章 昭和と言う名の青春(衛生学校編) Link
・第4章 昭和と言う名の青春(健康管理編) Link
・第5章 昭和と言う名の青春(東北編) Link
・第6章 昭和と言う名の青春(恋愛編) Link
・第7章 昭和と言う名の青春(自衛隊卒業編) Link
・第終章 昭和と言う名の青春(向田家) Link

 

● 続・私小説 ファミリーストーリー(青春自衛隊) Link

 

 

第1章 昭和と言う名の青春(東京編)

  僕(三名金作:さんな きんさく)が生まれた戦中戦後の昭和は貧しかった・・、
僕は1956年に工業高等学校電気通信科を卒業したが、大不況下で無線通信・技術の国家資格を取っていても就職できず、
しかたなく・・仕方なく・・、東京で当時は最先端であったテレビジョン(TV)の技術を学ぶべく上京した・・、
その折り、親から1か月分の外食券を渡された・・・、外食券とは配給制度の名残だろうか?・・東京などの都会には外食券食堂があって、安く食事が出来た。

 TV技術者養成所は渋谷の道玄坂を上がったある大学の教室で夜間に行われており、多くは電気メーカの社員達が学びに来ていた。
僕は昼間、アルバイトしながら夜間に養成所に通っていたが・・、ある日、しょぼ降る雨の中をいつもの様に渋谷駅の高架下を通り養成所に向かう途中で、
お姉さんから声を掛けられた。"学生さん、マッチを買って・・"、と赤いラッフルスカートの女性がマッチを差し出す。
噂のマッチ売りの少女か・・? 1本いくらか忘れたけど、貧乏な僕でも買える銭だったと思う。
 
目立たない場所でマッチを擦った・・、持ち上げたラッフルの下に白いモモが見えたが、普通より短いマッチはすぐに消えて終う・・、もう1っ本、もう1っ本と、
アホな僕は結局、持ち金を全部使ってしまった。


(画像はイメージです)

 僕が通うTV養成所へは道玄坂を通るのが近道だったが、ラブホテルから漏れ聞こえる声は若い僕にとってあまりにも刺激的で勉強どころでなかった。
ラブホテルから出てきてタバコを吹かす薄情そうな男性の腕にすがって泣いている女性・・気になって・・気になって・・、勉強など身に入らなかった。

 結局、当時の最先端技術であるTV技術を習得できないまま、1年間で養成所を終了したが、TV技術を生かせる職には付けず、相変わらずアルバイトの日々を送っていた。
見かねた友人の勧めもあって陸上自衛隊の入隊試験を受けるために故郷の親の元に戻った。
たった1年間で東京からもどった僕は親に連れられて地元の陸上自衛隊の駐屯地で入隊試験を受け合格した。
 
工業高等学校電気通信科卒業の1年先輩達は管区警察や自衛隊(陸上・海上・航空)などで、無線通信士・技術者として要職にあり活躍していることを耳にし、
僕も自衛隊で無線通信とTVの技術を生かそう・・生かせると思っていた。

第2章-1 昭和と言う名の青春(自衛隊編、その1)

 1957年(昭和32年)、僕は自衛隊入隊試験を受けた。身体検査は5人1組でパンツ1枚で身長・体重・視力などの計測から、最後は通称"M検"と呼ばれる性器検査で、
検査官の前でパンツを下ろすとゴム手袋で性器をシゴカレルのだが、隣の男性の立派な一物に検査官も驚いた様子だ、
その隣の男性は"人権侵害だ・・“ などと叫んで座り込んでしまったりと色々あったが、僕は無事合格となった。


(画像はイメージです) 

入隊の日、祖父母や両親や兄弟が入隊式に参列してくれ、別れ際に“ばんざーい”で送り出してくれた。
入隊初日に前期教育隊で与えられた衣服などを受け取とったが、靴は米軍からの払い下げでどれも大きく、プカプカで足のサイズに合わないものだった。
初めての夕食で食堂に行き、アルミ製の食器に注がれたご飯は、白米少々、外米(アメリカから買わされたコメ)、黄変米(黄色く変色した古米)と麦のご飯で、
なんとも言えぬ匂いで喉を通らなず、PX(売店) の食堂で夕食を済ませた。翌日からは基礎訓練が始まったが、
与えられた小火器がこれまたアメリカから貸与されたM1ライフルで、大きくて重く、日本人の体形に合わないライフルを肩に担いでの行進訓練が始った。
訓練が始ると腹も減って、あの不味く臭い飯でも食べられるようになり、前期教育が終了し適正検査で僕は衛生隊に行くことになったが僕は不満だった。
僕は高等学校卒業時に無線通信士・技術士の国家資格を持ち、東京で1年年間TV技術者養成所でTV技術を身に着けていたので、
当然、通信隊に行けるものと思っていた。だが、客観的な適正検査では無線通信に向いていないとされた。

 後に、それが正しいかったとが分かるのだが、その時は不満たらたらで、背嚢を背負って赴任先の駐屯地に向かう貸し切り列車に訓練通りに整然と乗り込むと、
ホームに駐屯地の関係者や地元の大勢の人々に、まるで戦地に向かう兵士のように見送られた。

 夜中に赴任先の駅に着くと、軍用トラックに載せられ見も知らぬ土地の駐屯地に着き、与えられたベットで眠り込んで気づけばもう朝で点呼を受け、
後期教育隊へ行く準備が始まったが、僕はまだ不満タラタラで衛生隊から通信隊への所属変更を訴える方法を考え、
「折角の国家資格が無駄ではないか・・」とか「これは国家の損失である・・」とか、色々な屁理屈を考えていたが、医師である衛生隊長の面接を受けたときに、
思い切って僕の不満を吐露したところ、衛生隊長は「君の資格はキット生かせるから励みなさいと・・」と言われた。
そして、この衛生隊長との出会いこそが運命的な出会いであった。

第2章-2 昭和と言う名の青春(自衛隊編、その2)

 入隊から2年の歳月は何も分らぬままアット言う間に過ぎ医務室勤務を続けていたが、僕の通信隊へ行きたい思いは断ち切れずにいた。
そこで、自衛隊法の規則を調べてみると僕の国家資格(無線通信士・技術士)で技術陸曹・幹部になれることが分かったので、3年目に試験を受け陸曹候補生になった。
陸曹候補生過程の前期教育隊に行くと、早速、基礎体力が試され1500mを走らされたが・・ビリで” それでも自衛隊員か・・”とのヤジが飛んできた。
皆について行くのがやっとの有様で、当然、成績もビリであったようで、所属駐屯地の連隊長から駐屯地の恥だら連れ戻せと言われたらしいが、
衛生隊長がもう少し様子を見て欲しいと僕を庇ってくれたことを後々に知った。

 毎日の訓練を重ね前期課程の修了の日に、教官や助教が僕にこう言った ”三名君ありがとう!、
君のお陰で私の勤務評価はAだよ!・・??“、僕には何のことか分からなかったが、どうも教官・助教の良き指導と教育の成果として僕を
トップクラスに導いたとして評価されたらしい。

  後期課程は衛生学校で、僕の通信隊への道は完全になくなったが、東京へのあこがれもあったので背嚢を担いで上京した。
衛生学校では専門的な基礎医学や衛生学などの座学や実習、そして訓練などの教育スケジュールであったが、九州出身のモサ達?が威張っており、
ある時、柔剣道の試合形式の訓練があった。対戦相手は九州のモサ? で柔剣道の経験がない僕に勝ち目はない・・、 九州の連中は笑いながら ”へなちょこ・・” などとの嘲笑が飛んできた。

 子供の頃に棒術・柔術の達人と言われていた祖父から強い相手に向かったときは、”相手の目を見るのじゃ~!” を思い出し、
僕は相手の喉元に剣先を向け相手の目の動きをしっかりと捉え、裂ぱくの気合を発した・・、どうしたことだ? 
相手は攻めてこないではないか、九州の連中からヤジが飛んだ・・”さっさとやっつけてしまえ・・”、
そのヤジに押された様に相手のユルイ剣が突き出されてが、それをハネて僕の剣が鋭く相手の喉元めがけた突きが飛んだ。
  相手は尻もちをつき、教官の”待て!” で勝負あった・・、試合としては喉元は禁止されているので反則だったかも・・、
多分反則だろう?・・・が、その後、九州のモサ達にナメラレルことはなく首席で後期課程を終え、衛生隊長の期待に応えることが出来たようだ。

第3章 昭和と言う名の青春(衛生学校編)

 若い僕にとって東京の衛生学校・中央病院は魅力的で学びの機会に恵まれいた。森鴎外以来の歴史ある衛生学校で学ぶうちにいつしか医学・医療がヒョットしたら
自に合っている様な気がして来た。

陸曹教育後期課程を終え帰隊した後ちに、衛生隊長に願い出て中央病院で衛生・臨床検査の研修を希望した。そして、中央病院で衛生検査技術の研修を受けながら、
夜は、18歳の時に中途半端で終了したTV技術者養成所に自費で通わせてもらった。養成所1年前より充実した授業内容になっており最先端のTV技術者の養成とあって、
大学出の大企業の社員も多く学びに来ていたが、やは1年前と同じで高卒の僕など相手にされず少々場違いの雰囲気であった。
ある時、講師や受講者が集まって難しいそうに真剣に議論しており、何だろうと思ったら連立方程式(ツルカメ算ではない)が解けないらしい・・、
僕は, ”あの~、宜しかったら僕にやらせてもらえませんか・・?”

講師は,
”高卒の自衛官では無理だろうよ・・”

・・・と嘲笑気味に問題を見せてくれた。  

僕は行列演算(逆行列や単位行列)を使って数分で解答したら、それが養成所中の噂さとなり”すごい自衛官がいる・・”と皆んなの注目されるところとなり、
東京の夜を教えてくれたり遊んだりと仲間扱いされるようになった。
 
衛生学校と中央病院で衛生・臨床検査や食品検査を、そして自費でTV技術を習得して所属駐屯地に帰ってみると、
師団改編で僕の居場所は連隊本部の衛生資材等の供用官業務になっていた。何のために衛生・臨床検査の勉強をしてきたのか・・、
医務室では、例えば、糞便検査で寄生虫卵の区別も、又、赤痢など細菌検査の同定も出来ない全くのド素人の衛生隊員が検査をしており唖然としたが、
どうもヤブ歯科医が衛生隊長になって、前の衛生隊長派だった僕は目障りだったらしい。 
またしても、人生の不運を嘆く閑職の日々が続くこととなった。

無線通信・技術やTV技術の資格を持ちながら衛生隊へ、そして、衛生・臨床検査などを学んだのに超閑職の供用官業務に・・、
ああ~~、自衛隊は・・いや天(運命)は・・僕を見放したのだと思った。

 

第4章 昭和と言う名の青春(健康管理編)

 医務室は業務隊に所属し、衛生隊長(医官)は衛生科長である。衛生科長を取り巻く連中にとっては僕のやることなすことは目障りだったに違いない。
衛生検査の研修さえ受けたことない全くド素人の衛生隊員に衛生・臨床検査をやらせていた。
そればかりか師団編成で各大隊の所属になった衛生隊員の医務室への出入りも禁止されたのだ。
 それならばと、各大隊への所属となった衛生隊員を集め、各隊員の健康管理は各大隊で行うようにし、隊員が病気になれば各大隊所属の衛生隊員が付き添うようにし、
日ごろの隊員たちの健康管理に努めるようにした。
 隊員の栄養補給剤として、ビタミン剤などを地元の薬問屋と掛け合い、卸値で仕入れて、それを希望する隊員やその家族に卸値のまま提供することを連隊長に
進言すると、連隊長は“結構なことだ・・やって見ろ・・”と言われたので、早速、廉価での栄養剤の販売をはじめると、
これが駐屯地の大評判となり予約が殺到した。また、栄養剤仕入の卸問屋との関りがものを言って、
試薬(ズルフォサリチル酸や硫酸銅など)の提供を受けることが出来るようになったので、僕はこの試薬を濾紙に染み込ませた試験紙を作り濾紙に尿を垂らして、
その染色液の色の変化で尿蛋白や尿糖の有無を見ることにした。そう・・現在の尿試験紙である。
 この試薬作りを助けてくれたのが、前衛生隊長の父親の老医(開業医)であり大いに賛成してくれたが、駐屯地内での試薬作りは無理だろうと・・、
紹介されたのが地元の国立病院の臨床検査科だった。
 当時の尿蛋白の検査は今の時代のような試験紙法はなかったので試験管に尿を入れズルフォサリチル酸を入れ、白獨の強さを見るものだった。
この様な僕のやり方は衛生隊長の癇に障るところであり、医師法・薬事法・医薬品販売法などに抵触するとされ、業務隊長→連隊長を通じ禁止の命が下った。

 そして、僕は東北地方の地区病院に飛ばされた。
口実は“君が学んできた公衆衛生と疫学調査を生かして社会に貢献して欲しい・・” だった。
出向いた先は、へんぴな東北の漁村での衛生指導と疫学調査をその地の保健所職員と一緒にやることになった。


 (画像はイメージです)

第5章 昭和と言う名の青春(東北編)

 その寒漁村の家にはトイレがなかった。用足しは目の前の海辺で済ますのが普通であった。 僕達(保健所の職員達)は、公衆トイレを作ったりして、漁村民の衛生意識の向上改善に取り組んだり、理学的検査(血圧など)を行ったり、また、 保健婦(師)は栄養指導などを行ったりして、生活環境の改善に取り組んだ。

 ある夏の日、海浜での水難救助訓練で僕達は救助テントを張り訓練に参加していた。 夕暮れに僕の救護テントに17歳の少女が来た、少女の足に深く刺さったウニの棘を小切開して抜いてやったお礼に、 その土地のおもてなしの風習で風呂(五右衛門)に入りに来いと言う・・、満天の星空と潮騒を聞きながら甲斐甲斐しく薪をくべる少女が湯上りの僕の裸体を拭きながら、 開けた浴衣の紐を解くと健康的な小麦色の肌と未だ固そうな形の良い乳房とよく引き締まったヒップから太もものキレイなラインが露わになり、 ジーと僕を見つめる野性的な黒い瞳がとても魅力的だった。


(画像は三島由紀夫原作の映画「潮騒」(主演:青山京子)の一シーンを引用)

***
三島由紀夫原作の映画「潮騒」(主演:青山京子)を彷彿とさせる昔日の青春の実体験で、ただ、それだけだったけど・・
***

  寒漁村での予定の業務も終えたある夏の日・・友達とこの地方で秘湯と言われている温泉地に出かけた。
友人と露天温泉に浸かっていると清流からカジカの鳴き声、月明かりに村娘達の白い裸体が次々に湯煙の先にうごめき僕たちの方に近づいて来る。


(画像はイメージです)

 慌てる僕たち、娘らのカラカウ笑い声を背に聞きながら、
近くの土産店に入り若いお姉さんにエロ写真を見たいと言うと、”あなた達興奮しても知らないから・・”と言って畳敷きの上がり縁にエロ写真を広げて呉れた。
品定めをしていると”はあ・・はあ” とお姉さんの息遣いが荒く畳にペッタンコ・・・??

 翌朝、友達が帰り一人で昨日のお店に入ると、お姉さんがダムを案内すると言って・・、ダムの遊歩道から外れた小屋に入ると僕を藁の中に沈めた。
お姉さんの仄かに甘い桃の匂いの中で・・”キット又来てね・・約束”と言って別れたがお姉さんとの約束を果すことはなかった。

第6章 昭和と言う名の青春(恋愛編)

 本隊である駐屯地に帰隊すると、すぐに次の地区病院への派遣が待っていた。しかし、時代は高度成長時代を迎えようとしていた。
そう~、情報化時代の幕開けで、当時の医学・医療の現場では生化学的な検査が主流であったが、ここにきて医用電子機器による診断・治療の目覚ましい
発展が見られる様になった。

例えば、
心電図や脳波検査であるが、これらの電子機器に精通した技術者は少なく、心電図の判読でさえ限られた専門医によってなされていた。
電気・無線技術と衛生・臨床検査に精通した僕は、自衛隊地区病院を転々してさ迷っていたが、時代のほうから僕を迎えに来たのだ。

 ある海上自衛隊の基地内にある赤レンガの瀟洒な旧海軍の将校会館でレーダ探知による判別方法(ROC:Receiver Operating Characteristic)の研修会があった。
飛行機を発見するレーダー・システムの性能評価分析である。本来、低空飛行をしている飛行機が認識できるかどうかを評価するために開発されたもので、
無線技術的には信号処理の一つで「雑音」のなかに埋もれている「信号」を検出する能力や性能を評価する方法で、
第2次大戦中にアメリカで開発された信号処理の一つであった。

 1週間の研究中、基地内に宿泊して、旧将校会館で研修を受け、1階のレストランで食事していたら、
隊員の一人が”三名班長さん・・、班長さんの食事だけがチョット違いますよ、気づいてますか?”と言う、
そう・・僕の食事にだけに小皿が一つ多いのだ、ラーメンはチャーシュが一枚多い時もあったりしたようだ。それから、ウエイトレスの視線が気になり出すと、
気のせいか何か熱いような視線を意識するようになりソワソワしだした僕を見て、”・・・、思い切って声を掛けたら”・・などと冷やかされたので、
ある日、会計の時に、思い切って”お茶でもいかがですか・・?”と聞いたら、小さく頷いてくれた彼女の頬が少し赤くなったようで、
それよりも僕の心拍のほうが高鳴っていた。

 研修最後の日、僕は彼女と人生で初めてのデートをしたが、かなりギコチなかっただろうネ・・、
一人で洋映画のシドチャーリッシやフレッドアステアのミュージカル映画の話ばかりしていたが、彼女はニコニコと聞いており、そんな楽しいデートはアットいうまで、
彼女は九州から出てきて海上自衛官の幹部である兄夫婦のもとにいることなどが分かった。
帰隊後、僕はせっせとラブレターを書いた・・、

 「僕は自然の風と澄んだ空と海と太陽が降り注ぐ光のもとでオレンジ色の柔らかな香り漂わせている貴女が忘れられません・・」

・・などと。

 ある日の彼女からの手紙には「お祖母さんの介護で九州に帰らなくてはなりません・・」とあった。
別れの日、見送る夜汽車は白い蒸気を吐きながら夜霧の中に赤いランプの残影と共に消えっていった・・遠い汽笛に薄れる影に僕は一人プラットホームに佇み、
さようなら・・さようなら・・彼女は瞼の奥に 悲しく消えていった・・永遠に。

 そのころ、 航空医学、スポーツ体育医学などでの研究で心電図・脳波計測が必要とされ、その検査と判読技術者の養成が急務であり、僕が最適任候補とされた。
長い長い下積みの暗闇に一条の光が差し込んだ様だった。
 東京のTV技術者養成所時代に知り会ったメーカーの人脈や各地区病院の医官などの推挙を得て、
医科系大学やメーカーなどで心電図・脳波機器の開発や自動診断の研究などに携わることになった。
水を得た魚の様に僕は生き生きと研究に没頭した。身体体表面上における電位分布を明らかにすると共に、心電図のベクトル的解析などを行い、
心電図自動診断への足掛かりとし、コンピュータによる計量診断学へ挑戦するなど、やりたいことは一杯あったが、自衛隊員としての訓練を疎かには出来ず、
国家公務員試験を受け防衛庁(当時)の技官になったらどうかと言うアドバイスもあったが、運命(天)は僕にずいぶんと大きな遠回りをさせながら別の道を用意していた。

第7章 昭和と言う名の青春(自衛隊卒業編)

 僕は防衛庁(当時)の技官になるか・・、あるいは、民間病院の招聘に応じるか・・、自衛隊を卒業する日の近いことを感じていた。
もう自衛隊を卒業し、自衛隊で得た数々の知識や技術や技能をもって社会に貢献すべき時が来たのではないかと思うようになった。

 すでに、自衛隊を退職し民間病院の経営に携わっている先輩に相談すると、すぐに来いと言うので、訪ねてみると、
先輩が”〇〇病院の臨床検査科長をやってくれないか・・”と言い、既に、病院理事長や病院長や医局長などが集まっており、
医師と同等の待遇での招聘だと言う・・、年収は自衛隊の2倍以上である。僕にはこの他にもいくつかの医療機関からの誘いもあった。

 この時代になって、医療における臨床検査による生化学的・理科学的な検査の重要性が高まりつつあり、
特に、心電図や脳波など医用電子工学が先端的な技術として注目されるようになっていた。在隊中はいくら望んでも通信隊への配属希望は叶えられず、
高校の同窓生で1年早く入隊した無線通信・技術士の有資格者達は、陸上自衛隊だけでなく航空自衛隊や海上自衛隊や管区警察からもスカウトされ、
自衛隊や警察の重要な無線通信・技術の幹部自衛官(警察官)として重要な要職にあった。 

 天(運命)は何故に僕を医学・医療の道を用意したのか・・、某国立大学公衆衛生学教室の客員となり、
医学統計手法及びその技術としてのコンピュータ・プログラミングの開発に取組んだ。
 そして、統計手法・技術に関する著書を上梓するなど・・、
不遇の時代から一転して運が開けだしたような感じだった。

 宇宙開発の時代に入り、日本は地球観測のために“もも1号” を打ち上げた。
宇宙衛星から送られてくる画像データを解析するコンピュータ・プラグラムを開発し、大気や海洋汚染の調査に当たったり、
臨床検査の自動化やコンピューター・システムの開発など・・・、僕にとって仕事は趣味の一部のようであった。

  人生は「運」のような気がしてならない・・、「運」は突然やって来るので、用意しておかないと、その「運」に気が付かないかも知れない・・、
幸い、僕は長い下済み生活の中で「運」を掴む用意が出来ていたのだろうか? 
平凡な名もなき一庶民にも「運」は、それなりに訪れるのだろうと最晩年の今・・僕はそう思っている。

 

終章(向田家)

 向田久美は話し終え、食器棚兼書棚に本を仕舞うと、テーブルの上を片付けだした。そろそろ、息子夫婦が帰って来る頃だ、
一人息子は“向田良彦(むこうだ よしひこ)”で、その嫁は“奈々子(ななこ)”、久美の夫は亡くなっているので、
向田家のファミリーは4人である。夕刻、息子夫婦が帰って来た。台所から香ばしいカレーの匂いがしている。
 奈々子が、お義母さん・・、夕食はカレーライス・・?
と言いながら、台所にやって来た。息子夫婦は共働きなので、夕飯は久美が用意することが多かった。

久美
 カキフライのカレーライスにしたよ・・

奈々子
 お義母さんのカキカレーはおいしいけんね・・

久美
 そりゃ~専門店で買ったカキじゃけんね・・

そして、家族4人のささやかな夕食がはじまって、
淳平が、 
 お父さん・・、“三名金作“ってゆう人・・知っとる・・?

良彦
 お祖母ちゃんのお父さんじゃが。

淳平
 どんな人じゃったん・・

良彦
 どんな人って、ゆうてもナ~、そう言えば一緒に奈良の女人禁の大峰山に連れて行ってもろうたわ・・、
 吉野の何とかゆうお寺に金作祖父ちゃんのお父さんの “大先達 明光院 三名象作(だいせんだつ めいこういん さんな ぞうさく)”の銘の入った無垢材の碑版があったな・・

淳平
 へー・・奈良か・・行ってみたいな・・

奈々子
 今時・・女人禁制じゃって・・興味あるわ・・、夏休みに皆でいかん・・?

久美
 そうじゃね・・、皆で行ってきんさい・・


(画像は女人禁制の山上ヶ岳 登山口)

向田久美は、これからも向田家のファミリー・ヒストリーが続くと思った。 “奈々子”が言った。
 次のゴミの日に古新聞や読まない雑誌をゴミで出すけんね・・
久美は食器棚兼書棚の左奥に目をやって、その本を確かめると・・
 そうじゃね・・、けど、永久保存の札の貼ってある本は捨てんといてよ。

と言った。
春近しといえど未だ外気は冷え冷えとしていたが、夜空には冷たく輝く星空が向田家の温かい食卓を見下ろしているかのようであった、
向田久美は心の中で小さく“おとうさん・・”と言った(完)。

 

・目次(昭和と言う名の青春) Link